久しぶりにあのドロドロが大人気のドラマ「大奥」が2024年に帰ってきますね!
ドラマの結末はいったいどうなるのか?毎週楽しみなドラマとなりそうです。
2024年版の「大奥」の主人公は皇室の血を引く五十宮倫子。夫となる徳川家治の関係性や2人の最後がどうなるのか?
ドラマの最終回よりも一足先に歴史上はどうだったのか?調べてみました。
「大奥」(2024)の五十宮倫子(小芝風花)の生涯と結末
「大奥」(2024)で小芝風花さん演じる五十宮倫子は、東山天皇の皇士・閑院宮直仁親王の娘で皇室の血を引く公家の娘であり、徳川家治と愛のない政略結婚を強いられた主人公です。
五十宮倫子は、元文3年に閑院宮直人親王の第6王女として京都に生まれました。寛延元年に家治との縁組が決定され、寛延2年に京都を発ち江戸に到着すると浜御殿に入ることに。
宝暦6年には家治との間に娘を授かりましたが、娘は2歳で亡くなってしまいます。
ですがその後宝暦11年には次女を授かりました。
また家治が、側室の出産した子も御台所である倫子の御養としたため、側室が産んだ子供である竹千代(のちの家基)の義母にもなりました。
メモ
御養とは?
正室出生の子と同様の立場とみなすこと
そして、明和8年に34歳という若さで倫子は亡くなりました。
倫子は政略結婚で家治と結婚しましたが、二人の関係は仲睦まじいものであったと言われています。
「大奥」(2024)の徳川家治の生涯と結末
一方倫子の夫となる徳川家治は、1737年5月22日に第9代将軍徳川家重の長男として生まれました。幼名は竹千代です。
父である徳川家重が生まれつき言語不明瞭だったこともあり、祖父である第8代将軍吉宗は家治への期待が大きく帝王学や武術を直接教え込みました。家治の側近となるものにも吉宗が自ら教育・指導するほどの熱心ぶり。
教えられたことを次々と理解するほど家治は聡明で武芸にも秀でていたと言います。
1741年8月、家治はわずか4歳で元服し権大納言になります。
その10年後の1751年に祖父吉宗が亡くなり、1754年12月に直仁親王の娘である五十宮と結婚することになるわけです。
1760年には父である家重の隠居により、第10代将軍に就任することに。
松平武元を老中に、田沼意次を側用人に任命し、政治を回していきます。
1779年に老中の松平武元が亡くなると、次の老中に田沼を任命し、幕政を任せるように。
家治は聡明だったため自分が政治を取り仕切るより、非凡な才能のある田沼に高い地位を与え政策を自由に行うほうが良いと考えました。
そして、田沼に政治を任せてからの家治は趣味に没頭していたと伝えられています。
家治は愛妻家としても知られ、倫子との間には2人の女の子も誕生しましたが、2人とも早く亡くなっています。
側室との間にも2人の男児が誕生しますが、こちらも早くに亡くしてしまいます。
そして1779年に、世子となる家基が18歳で急死したため、1781年に一橋家当主徳川治済の長男豊千代を養子として迎えることになります。
1786年8月25日、徳川家治は享年50(満49歳)で亡くなりました。
原因ビタミンB1不足により心臓の機能が低下する「脚気衝心」だったと推定されているとのこと。
また、家治が在位した1760年から1786年の間に「昭和の江戸大火」「天明の大飢饉」「浅間山噴火」などの災害が相次ぎました。
その間、老中田沼に任せた政治による大きな成果は当時は出ませんでしたが、後世にはその政策などが取り入れられ施行されています。
まとめ
2024年版の「大奥」の主人公は皇室の血を引く五十宮倫子。
五十宮倫子は、元文3年に閑院宮直人親王の第6王女として京都に生まれました。寛延元年に家治との縁組が決定され、寛延2年に京都を発ち江戸に到着すると浜御殿に入ることになります。
倫子は夫である家治との間に2人の女の子をもうけましたが、2人とも早くに無くしています。また自身も34歳という若さで亡くなりました。
政略結婚で倫子と家治は結婚しましたが、二人の関係は仲睦まじいものであったと言われています。
一方、徳川家治は、1737年5月22日に第9代将軍徳川家重の長男として生まれました。
家治は聡明で武芸にも秀でており、祖父である第8代将軍吉宗は家治への期待が大きく帝王学や武術を直接教え込みました。
1754年12月に直仁親王の娘である五十宮と結婚した後は、1760年には父である家重の隠居により、第10代将軍に就任することになります。