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「虎に翼」星航一(岡田将生)のモデルは再婚相手の三淵乾太郎!生い立ちや経歴を紹介

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朝ドラ「虎に翼」の星航一(岡田将生)のモデルは三淵乾太郎!生い立ちや経歴を紹介

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朝ドラ「虎に翼」で岡田将生さんが演じる星航一は長身のスラっとしたイケメンで、法曹界の重鎮である父親を持つ裁判官という役柄です。

星航一にはモデルとなったと思われる実在した人物がいます。

それはヒロイン寅子のモデル三淵嘉子さんの再婚相手となる裁判官の三淵乾太郎さんなんです!

そこで三淵乾太郎さんがどんな人物だったのか?その生い立ちや経歴を紹介します!

朝ドラ「虎に翼」の星航一(岡田将生)のモデルはヒロイン再婚相手の三淵乾太郎!2人の共通点

虎に翼のヒロイン猪爪寅子のモデルとなっているのは日本初の女性弁護士の1人として活躍した三淵嘉子さん。

その2人目の夫である再婚相手が三淵乾太郎(みぶちけんたろう)さんです。

この三淵乾太郎さんをモデルにしているのが岡田将生さん演じる星航一という登場人物思われます!

そのように考えられる2人の共通点はこちら。

  • 三淵乾太郎は初代最高裁長官である三淵忠彦の長男
  • 星航一の父親は法曹界の重鎮・最高裁判所長官の星朋彦
  • 三淵乾太郎も星航一も長身のおしゃれなイケメン

三淵嘉子さんの自伝的小説「裁判官 三淵嘉子の生涯」によると三淵乾太郎さんは背が高くおしゃれで知的な雰囲気のある男性となっているので、星航一の役を岡田将生さんが演じるのにも納得です。

航一は温和な性格ですが、その笑顔の裏に本心が隠れていてそれを表に出さない役柄のようです。

父親に法曹界の重鎮を持ち、そのプレッシャーなどもあるのかもしれません。

そこに明るく元気で歯に衣着せぬ物言いをする寅子がどのようにアプローチしていくのか?ドラマの中で2人の関係がどのように発展していくのか?が気になります。

また、航一と寅子の信念には通じ合うところがあるとなっているので、裁判官・星航一がどのように寅子の人生に影響を与えていくのか?にも注目です!

「虎に翼」の星航一(岡田将生)のモデル・三淵乾太郎の生い立ちや経歴を紹介

星航一(岡田将生)のモデルとなっていると考えられる裁判官・三淵乾太郎(みぶちけんたろう)さんの生い立ちや経歴はどのようなものだったかというと・・

三淵乾太郎さんは明治39年(1906年)12月、三淵忠彦の長男として生まれました。

祖父の三淵隆衡(みぶちたかひら)は、会津藩家老の茅野長修(かやのながはる)の弟でした。

なぜ兄弟で苗字が違うのかというと、戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として家老である茅野長修が処刑されたためお家断絶となったからと言われています。

そして隆衡は茅野ではなく三淵と名乗るようになったのだそう。

三淵乾太郎さんには3人の弟と妹が1人いるのですが、父親である三淵忠彦と同じように法曹界へと進んだのは乾太郎さんだけでした。

ちなみに弟の1人は、のちに千代田生命保険社長となっています。

東京帝国大学出身の三淵乾太郎さんは昭和26年4月には明治大学短期大学の兼任教授を務め、
昭和40年4月から昭和47年までは明治大学の兼任講師も務めていたそうです。

その後は東京地方裁判所判事を務めており、「小田原一家5人殺害事件」も裁判長として担当しています。

三淵嘉子さんとは1956年に再婚しました。

前妻の生沼祥子さんとの間には4人の子供がおり、生沼祥子さんは病気で亡くなっています。

そのため4人の連れ子がいる状態で、三淵嘉子さんと再婚しています。

再婚時三淵乾太郎さんは50歳でした。

星航一(岡田将生)のモデル・三淵乾太郎の人柄が分かるエピソード

星航一(岡田将生)のモデルである三淵乾太郎さんが担当した判例の中で最も知られている事件として1949年の「小田原一家5人殺害事件」があります。

被告は18歳という若い男性で、銭湯でのぞき見していたのを銭湯の経営者に注意され、逆上し注意した男性とその家族を含め5人を殺害し、1人に重傷を負わせてしまうという事件でした。

この事件の裁判の裁判官だった乾太郎は死刑という判決を下します。

その後被告人は控訴しますが、弁護人をはじめとする周りの人々に控訴を取り消すよう言われてしまいます。

そんな中、乾太郎は拘置所にいた被告人に会いに行き、控訴を進めました。

死刑を下した本人であるのになぜ控訴を進めたのかと問われた乾太郎は、

「裁判官ではなく一個人としてここに来た。一人の人間を救いたい気持ちでいっぱいだ

と答えたと言われています。

その言葉を受け被告人である18歳の男性は控訴を継続し、最高裁判所へ再度の審理を求める「上告」まで行きましたが、結局棄却されてしまいました。

これらのことは当時新聞にも取り上げられ世間の注目を浴びました。

そこで、乾太郎は

  • 死刑制度に反対していること
  • 被告人が年少であることを問題視していること

など意見を述べています。

これらの考えは、再婚相手となる三淵嘉子さんが家庭裁判所長となりたくさんの青少年と向き合っていく生き方とも重なってきており、乾太郎から大きな影響を受けたと考えられます!

星航一(岡田将生)のモデル・三淵乾太郎と再婚相手の嘉子との馴れ初めや出会い

三淵乾太郎と再婚相手の嘉子が出会ったきっかけは乾太郎の父・忠彦でした。

1948年、嘉子が最高裁民事局で働いていると、ある日突然、最高裁長官である三淵忠彦に呼ばれます。

何かと思い長官室に赴くと、そこに居たのは明治大学女子部の恩師・穂積重遠教授(ドラマでは穂高教授)でした。

穂積教授から話を聞いた最高裁長官・三淵忠彦は嘉子に興味を持ち呼び出したのでした。

そこから嘉子は忠彦の仕事を手伝うことになり、交流ができていきました。

ですがその後1950年、嘉子が渡米している間に忠彦が亡くなります。

その知らせを受け帰国した嘉子は三淵家を訪れ、そこで乾太郎と出会うことになります!

星航一(岡田将生)のモデル・三淵乾太郎は再婚相手にぞっこんだった!

三淵乾太郎さんは1956年に嘉子さんと再婚することとなるわけですが、2人の関係は乾太郎さんの方が嘉子に大きく惹かれていたようです。

それに関してこんなエピソードが残っています。

1956年5月に嘉子の勤務先が東京地方裁判所に変わった頃のことです。

嘉子の退勤する時間に合わせて判事室を訪ねてくる背が高くてスレンダーな英国風紳士を嘉子の同僚が目撃しており、2人の様子がとても親密で特に紳士の方が嘉子への愛情にあふれているようだったと語っているのです。

その後同僚は他の方から「2人はもうすぐ結婚するんだよ」と教えてもらったのだそう。

そして実際にその年の8月に2人は再婚しました。

結婚後もお互い裁判官であることから、別々の場所で暮らしている時期も多かったようですが、2人の仲は良く嘉子が退官した後には旅行に行ったりしていたのだそう!

ただ、2人ともそれぞれ連れ子がいる状態での再婚で、特に乾太郎さんの娘たちと嘉子との間にはバトルがあったようです。

その辺りはドラマではどのように描かれるのでしょうか?!気になります。

晩年は2人とも入れ替わるように入院生活となり、1984年に嘉子が亡くなったその翌年1985年に乾太郎も後を追うように亡くなっています。

三淵乾太郎と嘉子と甘柑荘

三淵乾太郎と嘉子夫妻にとって大事な場所として「甘柑荘(かんかんそう)」という場所があります

甘柑荘というのは数寄屋家屋の三淵邸の別荘のことで、小田原市板橋に現在もあります。

乾太郎の父・忠彦が昭和初期に建てた別荘で忠彦は晩年をこの甘柑荘で過ごしています。

茶室もあり、屋敷の南側には広い芝庭が広がります。

また庭の周りには花木や紅葉が植えられ、東側には蜜柑、夏蜜柑、檸檬、金柑、梅が植えられています。

この甘柑荘は乾太郎と嘉子とともに家族が集まりにぎやかに過ごした場所として紹介されています。

乾太郎と嘉子は仕事柄、東京・甲府、浦和・新潟など離れて暮らす期間が長くありました。

そこで甘柑荘に集合して家族と一緒に楽しく麻雀などをして過ごしていたのだそう!

東に植えられた蜜柑、夏蜜柑、梅などは嘉子が植えたと言われています。

柑橘系の果樹が植えられていることが「甘柑荘」の名前の由来にもなっているとのこと。

甘柑荘は現在も残されており、一般の方が見学することもできます。

住所:神奈川県小田原市板橋 822

建物や庭の維持寄付金として1人につき500円以上かかります。(中高生は200円以上、小学生以下は無料)

公開日は金曜日と日曜日。

2024.6現在、時間を延長して午前11時~午後3時まで公開しています。

予約は必要ないようですが、混雑時には整理券が配られるとのこと。

駐車場がないのでご注意ください。

・JR小田急線「小田原駅東口」から徒歩約 22 分(1.8Km)
・箱根登山鉄道「箱根板橋駅」から徒歩 5 分

もしかしたら、「虎に翼」の後半の撮影にも使われているかもしれませんね!

他の情報もチェック!

まとめ

朝ドラ「虎に翼」の星航一(岡田将生)のモデルはヒロイン猪爪寅子のモデルとなっている三淵嘉子さんの再婚相手の三淵乾太郎さんだと思われます。

そのように考えられる根拠は以下の点です。

・三淵乾太郎は初代最高裁長官である三淵忠彦の長男
・星航一の父親は法曹界の重鎮・最高裁判所長官の星朋彦
・三淵乾太郎も星航一も長身のおしゃれなイケメン

再婚時に三淵乾太郎さんは50歳でした。

三淵乾太郎さんは明治39年(1906年)12月、三淵忠彦の長男として生まれ、東京帝国大学を出て、昭和26年4月には明治大学短期大学の兼任教授を務め、
昭和40年4月から昭和47年までは明治大学の兼任講師も務めています。

1949年の「小田原一家5人殺害事件」は乾太郎さんが裁判官をつとめた事件としてとても有名で、そこでの乾太郎さんの行動も世間に注目されました。

そこから分かる乾太郎さんの考え方は再婚相手の三淵嘉子に大きな影響を与えたと考えられています。

再婚後の2人の関係はとても良好で、特に乾太郎さんの方が嘉子にぞっこんだったようです!

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