大河ドラマ「べらぼう」では、江戸時代の出版界で一世を風靡した蔦屋重三郎を中心に、その生い立ちなどの物語が描かれていきます。
歴史的に蔦屋重三郎はどんな人物で、生い立ちや晩年はどうだったのでしょうか?
江戸時代の文芸文化を支えるキーパーソンとなっている蔦屋重三郎の功績は今日の日本文化にも大きく影響を与えています!
そこでこちらでは大河ドラマ「べらぼう」の題材となった蔦屋重三郎の史実を詳しく探り、波乱に満ちた人生について迫っていきます。
「べらぼう」の蔦屋重三郎の紆余曲折の生い立ち!
生まれ育った場所
2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」の主人公となる蔦屋重三郎は、1750年に遊郭のあった吉原(現在の台東区千束)で生まれています。
父親は遊郭の勤め人の丸山重助(じゅうすけ)という尾張出身の人物で母は廣瀬津与(つよ)という、決して裕福とは言えない至って普通のむしろ貧乏な庶民の家庭に生まれた子でした。
その後幼くして両親が離別し生き別れしまい、7歳の時に吉原で遊客を遊女屋へ案内する引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子になっています。
本名や名前の由来
そのため本名は「喜多川珂理」(きたがわからまる)と言います。
(珂理を「からまる」と読んだのかどうかは定かではないようです)
当時「蔦屋」と名乗る妓楼や茶屋は何軒もあり、喜多川家はそのうちの一つでした。
そして「蔦唐丸」というペンネームで狂歌や戯作を執筆した活動をしていました。
通称「蔦重」とも呼ばれ親しまれていたそうです。
出版業を始めたきっかけは?
そしてその後、1772年の安永元年、義兄・蔦屋次郎兵衛(じろべえ)がやっていた吉原の引手茶屋を間借りして貸本屋を開きました。
それが「耕書堂」となります。
重三郎がなぜ書店を開業したのか、理由ははっきり分かっていません。
大河ドラマ「べらぼう」の結末はどうなる?蔦屋重三郎の晩年は?史実をチェック
大河ドラマ「べらぼう」の結末はどうなるのか?蔦屋重三郎の晩年についてを史実でチェックすると・・
蔦屋重三郎は、西暦1797年5月31日(寛政9年5月6日)に享年48歳で亡くなったと言われているということが分かりました。
その症状は「食欲がなく足がだるい」「顔がむくんでいく」というものだったそう。
現在の感覚では、非常に若くして亡くなられたという印象を持ちます。
しかし、江戸時代の平均寿命が45歳、歴代の徳川将軍も平均51歳で亡くなったと聞くと、当時としては極端に若くして亡くなったという感覚ではなかったのだと想像されます。
さて、そんな蔦屋重三郎の死因は『脚気』という病気と言われています。
ビタミンB1不足が原因として起こる疾患で末梢神経障害や心不全が起こる病気です。
中学の理科の授業で反射の一例として膝蓋腱反射を習ったと思いますが、この反射がないと脚気の疑いがあるとされます。
(膝のお皿のすぐ下の部分をトンカチのような器具でたたいて足が上に反射で上がるかどうかを確かめるアレです)
白米中心の栄養が偏った食生活が続いたり、アルコール依存があるとアルコール分解に体内のビタミン使用され、ビタミンが不足して発症することがある病気です。
脚気は「江戸患い(えどわずらい)」とも呼ばれていた病で、江戸時代となり玄米から白米に食生活が変わったことで当時広く流行していた病です。
重三郎の病が重体となり、息を引き取ったのは寛政9年の5月6日の夕刻のこと。
実はこの日最期を感じた重三郎が「午の刻(正午)に自分はなくなる」と予言したのだそう。
ですが、正午になっても生きている自分に「自分の人生は終わったが、いまだ命の終わりをつげる拍子木が鳴らない。おそいではないか。」と言ったと言います。
これが最後の言葉となりました。
大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎は結局何した人?写楽との関係と時代背景
大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎は結局何をした人なのでしょうか?「写楽」というのはどういうことなのでしょうか?
何をした人?
蔦屋重三郎は「蔦重」とも呼ばれ、江戸時代に様々な有名絵師の作品を世の中に広めて人気を博した版元です。
現代でいう所の『天才プロデューサー』『売れっ子作家の敏腕編集者』のような存在と言えます。
そして喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の「美人大首絵」や、謎に包まれた絵師である東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)のデビューも手掛けています。
作品には当時のスターである
- 歌舞伎役者
- 吉原の遊女
- 相撲力士
などが描かれ、今のアイドルのブロマイド写真のように飛ぶように売れていました。
他にも葛飾北斎やその師匠である勝川春章などの作品も手掛けていました。
世の中を風刺した作品や派手な作品も出版していたので、松平定信の寛政の改革で摘発され財産の半分を没収されてしまいます。
それでもあきらめずに出版を続け、松平定信が失脚した次の年、寛政6年に写楽をデビューさせました!
写楽のプロデュース!
「江戸のメディア王」こと蔦屋重三郎。
そんな彼が世に売り出したうちの1人が東洲斎写楽。
江戸時代中期の浮世絵師です。「4大浮世絵師」 の1人と言われています。
蔦重は1794年に謎の絵師・写楽をプロデュースしました。
10ヶ月の間に145点の役者絵や肖像画を描きましたが、その作品はすべて蔦屋重三郎の元から出版されています。
なんとデビュー時に役者大首絵を28枚同時に出すことで話題になり、そこには蔦屋重三郎のプロデュース力を感じます。
しかし翌年1795年、写楽は姿を消しました。
写楽が何者だったのか、様々な研究がされていますが、能役者・斎藤十郎兵衛だったという説が濃厚のようです。
つまり彼は寛政6年〜7年の1年間でこれだけ有名になったのです!
「べらぼう」の蔦屋重三郎の事業や出版の実績について!
蔦屋重三郎には「江戸のメディア王」という異名がついています。
いわゆる「版元」となり、作家と親交を深め絵本や浮世絵など娯楽の本を中心に出版していきました。
そして「葛飾北斎」「喜多川歌麿」「東洲斎写楽」など、たくさんの偉才を見出し、世に送り出したのです。
彼らを有名にしたのが蔦屋重三郎と言われています。そんなことから、浮世絵の黄金期を作りあげました。
浮世絵は風紀を乱す、と幕府から目をつけられて処罰されることもありましたが、屈することなく前代未聞のエンターテインメントを築いたというのが重三郎の大きな実績です。
初期
蔦屋重三郎は20代半ばで日本橋に本屋「耕書堂」を開業し「みんなが読書を楽しめる本を出版したい」と出版業を始めました。
蔦重がまずはじめに出版したのは、1774年安永3年に出版した遊女評判記「一目千本(ひとめせんぼん)」でした。
これは吉原の遊女の評判を挿し花にして紹介したもので、当初「耕書堂」では売らずに一流の妓楼に置くことでそこに来た客しか見られないようにしました。
すると、その店に行った人しか中身を見ることができない本として評判となり、たちまち話題に!
その後一般的にも「一目千本」を販売し大評判となりました。
このような「仕掛け」がとても上手かったことで蔦重は出版元としての腕だけでなく今でいう「マーケティング」が巧みだったと言われています。
その翌年には「吉原細見」という本の出版も手掛けます。
この「吉原細見」というのは”吉原のガイドブック”となっていて、廓の地図や店の代金、遊女の名前のリストなどをまとめた冊子で、その内容を随時更新していくようなもの。
それまでは地本問屋の鱗形屋孫兵衛が出版を独占していましたが、訴訟騒ぎがあり鱗形屋孫兵衛が処罰を受け「吉原細見」を出版できなくなったところを蔦重は狙い新しく改良を加えた「吉原細見」を出版したのです。
さらに吉原に詳しい蔦重は冊子の改良だけでなく、この冊子の広告的な価値を吉原関係者に説明して回り店にも協力してもらって正確な情報を集めていきました。
そして、平賀源内などすでに文化人として知られている有名人に文章や挿絵を描いてもらうことで特別な価値のある冊子という位置づけにも成功しました。
これにより蔦屋の「吉原細見」の評判はうなぎのぼりとなり、大人気となりました。
中期
そして1780年の安永9年に重三郎は自身として初めての黄表紙「伊達模様見立蓬莱(だてもようみたてほうらい)」を出版します。
その翌年に出版した黄表紙「見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)」が評判となります。
黄表紙というのは大人向けの絵草紙で、挿絵を描く絵師が欠かせない存在でした。
なので重三郎の元には絵師たちが必然的に集まってきました。
ここで絵師と蔦重との関係ができて行き、のちに蔦重は浮世絵のプロデュースもしていくことになります。
この頃、実績が積みあがってきた重三郎は、1783年の天明3年に耕書堂の本店を吉原大門前から江戸の一等地だった日本橋の通油町(現在の大伝馬町)に移転して一流の地本問屋に仲間入りします。
34歳の重三郎が、耕書堂を開業してから10年という短期間で成し遂げた快挙でした。
そして天明6年に出版した狂歌絵本「吾妻曲狂歌文庫」が大人気となり、その後も数々の名作狂歌絵本が耕書堂から出版されました。
この狂歌絵本を重三郎が作れたのは、当時流行っていた「狂歌連」と呼ばれる狂歌サークルに所属していたからでした。
そのつながりから人気狂歌師を集めて舟遊びをして、そこで詠まれた狂歌を書籍としてまとめたり、絵と狂歌を合わせた「狂歌絵本」という新しいジャンルを作ったのです。
この狂歌絵本で人気となったのが喜多川歌麿でした。
そして狂歌絵本三部作とも言われる「画本虫撰(えほんむしえらみ)」「潮干のつと(しおひのつと)」「百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかあわせ)」が生まれました。
後期
1786年天明6年に老中だった田沼意次が失脚したことで、蔦重の出版業にも大きな影響が出てきます。
松平定信が意次に代わって老中となり「寛政の改革」が行われたからです。
定信の寛政の改革を揶揄する内容となっていた「文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)」や「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」を続けて出版した蔦屋。
それにより幕府から目をつけられたのか、1791年寛政3年に出版した山東京伝の洒落本三部作が出版統制に触れてしまいます。
作者の山東京伝は両手に鎖をはめられる刑に50日も処され、出版元だった重三郎も財産半減の処分を下されてしまいます。
同じく耕書堂の関係者だった朋誠堂喜三二も執筆自粛、恋川春町は幕府からの呼び出しを無視して、その後謎の死を遂げます。
このようにして耕書堂は勢いがなくなってきますが、ここで登場したのが謎多き浮世絵師「東洲斎写楽」でした。
ですが、写楽は10カ月という短い間だけ活動したのちすぐに姿を消しまうのです。
その正体については今だ謎に包まれています。
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蔦屋重三郎については多くの関連書籍が見つかりますが、その中で、特にストーリーを予習できそうなものは・・
蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人
PHP文庫の車浮代さん著「蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人 歌麿にも写楽にも仕掛け人がいた!」です。
蔦屋の生い立ちから功績までをおった一作。
稀代の本屋 蔦屋重三郎
次にお勧めするのは、草思社文庫の増田晶文著「稀代の本屋 蔦屋重三郎」です。
こちらは時代小説になっており、蔦重(蔦屋重三郎)さんの生涯を、時の為政者の弾圧に遭いつつ「世をひっくり返す」作品を問い続けた稀代の男の波乱の生涯として、当時の江戸っ子文化が息づく文体で描き切った作品。
蔦重の教え
最後に、エンタメ系小説から、双葉文庫の車浮代著「蔦重の教え」です。
現代のサラリーマンが1780年代の吉原にタイムスリップして、蔦重さんの元で働き、人生の極意を学んでいく作品です。
まとめ
2025年に放送予定の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」の主人公・蔦屋重三郎は、1750年に遊郭のあった吉原(現在の台東区千束)で生まれています。
幼くして両親と生き別れしまい、7歳の時に吉原で遊客を遊女屋へ案内する引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子になります。
そのため本名は「喜多川珂理」(きたがわからまる)と言います。
そして「蔦唐丸」というペンネームで狂歌や戯作を執筆していました。
蔦屋重三郎は、西暦1797年5月31日(寛政9年5月6日)に享年48歳で脚気が原因で亡くなっています。
脚気はビタミン不足から起こるので、重三郎はビタミン不足が原因で亡くなったとも言えます。