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「どうする家康」の聖地まとめ!ゆかりの地の場所をチェック!

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「どうする家康」の聖地

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「どうする家康」では主人公・徳川家康に関係するさまざまな場所が出てきますよね。

そんな大河ドラマ「どうする家康」の聖地について、どんな場所があるのか?まとめました!

ドラマlove子
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また、家康ゆかりの地の場所もチェックしていきます(*^^*)

「どうする家康」の聖地まとめ!ゆかりの地の場所は?

「どうする家康」の聖地になりそうな場所や家康のゆかりの地をまとめました!

駿府城

徳川家康が7歳頃から19歳頃までの約12年間を人質として過ごしたのが、駿府城と言われています。

幼少期から青年になるまでの生活を送っていたので、故郷と言われています。

また、ここで将来お嫁に貰う瀬名と出会いなどがありました。

一度は壊滅的状態になった駿府城も家康の要望で再構築を行い、居住地へと移しました。

駿府城の場所

 

関ケ原

石田三成と関ヶ原の戦いを行い、勝ったのが関ヶ原の戦いです。

元々は豊臣秀吉の臣下として努めていた徳川家康と石田三成ですが、豊臣秀吉が死去した後、徳川派と反徳川は派に別れてしまいました。

豊臣秀吉の遺言により後継者の豊臣秀頼の補佐役となった徳川家康は「武士の給与」や、豊臣秀吉が禁じていた大名同士の婚姻などを積極的に押し進めていました。

それをよく受け入れることが出来なかった石田三成は何度も話し合いに行きましたが、徳川家康は聞く耳を持たず結果として内部分裂がはじまりました。

最終的に戦が終わった場所が「関ヶ原」となっていて、勝利した徳川家康は後に豊臣秀頼よりも勢力を伸ばし天下統一を果たしました。

関ケ原の場所

 

名古屋城

徳川家康が没城していた那古野城(現・名古屋城)を関ヶ原の戦いの後に再構築しました。

徳川家康は織田信長や豊臣秀吉の築城技術を受け継いでいた為、名古屋城を再構築することで大坂城を拠点としていた豊臣側への牽制と名古屋城を東の最大の防衛線とする事を目的とし再構築しました。

また、徳川家康は敵対する豊臣派と親交の深かった多くの外様大名を全国各地から集め構築を命じました。

こうすることで徳川への忠誠を誓わせた。という風に言われています。

名古屋城の場所

 

小牧・長久手

本能寺の変で織田信長が敗れ、後継者争いが勃発しました。

明智光秀に勝った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中心となっていました。

羽柴秀吉は織田信長の三男・織田信孝を擁護していた柴田勝家に勝ち、手を組んでいた織田信孝の兄・織田信雄は織田信孝を攻め勝ちました。

最初こそ羽柴秀吉と織田信雄の関係は良好でしたが、次第に悪化。

何とか反抗する為に父、信長と同盟を組んでいた徳川家康に話を持ちかけました。

信雄と家康対秀吉。

結果信雄と家康の大勝利となりました。

その最後の戦が行われたのが「小牧・長久手」となっています。

小牧・長久手の場所

 

久能山東照宮

徳川家康を御祭神として祀ってある全国東照宮の創祀となっています。

生前、徳川家康は自分が亡くなった時に行ってほしい事を「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を執り行い、三河国の大樹寺に位碑を収め、一周忌が過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請しなさい。八州の鎮守となる。」と、家来に遺言を残していました。

この遺言から2代目徳川秀忠により久能山に埋葬後、久能山東照宮が建設されたと言われています。

久能山東照宮の場所

 

日光東照宮

こちらも徳川家康を御祭神として祀る神社となっています。

久能山東照宮に祀られた後に1年後、日光山へと改めて埋葬されました。

その時に後水尾天皇から神号「東照大権現」を任命されます。

徳川家康の遺言にあった通り「小堂」を2代目徳川秀忠が建設させました。

当時は現在ほど華美な建物ではなかったそうですが、3代目徳川家光が徳川家康を非常に尊敬していた為、全国から腕のある大工を集めて現在のような豪華絢爛な東照宮となったそうです。

日光東照宮の場所

 

浜松城

永禄11(1568)年、徳川家康は三河から東に進み、今川が収める領地の制圧を開始し始めました。

徳川家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に行くことを決めました。

天下を取り平和を理想とする世界を創るためにはまず、武田信玄を倒さなければならないと判断した徳川家康は、元亀元(1570)年、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を建て、駿遠経営の拠点としました。

浜松城の場所

 

大樹寺

大樹寺とは徳川家の将軍が代々眠るお墓と記されています。

遺言にもあった通り徳川家康は「大樹寺に位脾を収める。」と残していました。

それにより4代目当主となった松平親忠によって建てられました。

なぜ徳川家康との関わりがあるのかと言うと、大樹寺の住職との逸話があるからです。

桶狭間の戦いの際、今川義元が討たれたという知らせを耳にした家康は「自分も危ないのではないか。」と考え大樹寺に逃げ込みました。

そこで自害をしようとしましたが、当時の住職に説得させられ、天下統一という夢を果たすことが出来た。と言われています。

大樹寺の場所

 

掛川三城

戦国時代駿河の守護大名と呼ばれていた「今川」は遠江を支配するための拠点として「掛川城」が建設されました。

それから今川の勢力拡大が進行していくにつれて掛川城では管轄が行き届かなくなり、「高天神城」「横須賀城」も建設されました。

今川が織田信長に負けると徳川家康は掛川城を攻め、勝ち取りました。

こうして徳川家康のと領地となり、石川家成も入城し、「三方ヶ原の戦い」で武田を迎え撃ちますが敗戦しました。

その後、武田信玄の病死により息子の「武田勝頼」と「長篠の戦」で討ち勝ち、結果として領地を奪い事ができた。ということになっています。

掛川三条の場所

 

 

まとめ

「どうする家康」で出てくるさまざまな徳川家康に関係する場所。

大河ドラマ「どうする家康」の聖地とも言えるゆかりの場所は、東海地方の各地にありました。

家康ゆかりの地をチェックしておけばさらにドラマを楽しめること間違いなし!

 

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